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2006.05.10

命のビザ・・杉原千畝

「私たちは、彼らが私たちの為にしてくれたことを決して忘れることはないだろう。」

以前、オーストラリアに旅行した時、シドニーにあるユダヤ博物館に訪れ、ホロコーストの記録フィルムを見ました。そのフィルムの最後に、シンドラーらと共に杉原千畝さんの顔が大きく写されこの言葉が語られました。同じ日本人として嬉しい気持ちで、博物館を出てきたことを覚えています。

ここ何年かの間に、「命のビザ」と題して杉原氏がリトアニアのユダヤ人を救った出来事が報道されてきました。最近も麻生外務大臣がここを訪問してきて、杉原氏の行為を日本人として誇りに思うと、テレビのインタヴューで話していました。

前から興味があって、彼について調べていたので、それらのいくつかを分かち合いたいと思います。

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杉原千畝氏は、1900年1月1日に生まれました。彼の夢は文学を学び海外に住むことでした。家庭教師の仕事と港湾労働者としてアルバイトをしながら、自費で早稲田大学に通い英語を学びました。

ある時、外務省が将来外交官として働く為に海外で学びたい人を募集するチラシを目にし、それに応募して難しい入学試験にパスしました。

彼は、中国のハルビンに行き、ロシア語を学び優秀な成績で卒業しました。同時に、彼はそこでクリスチャン(ギリシャ正教)になりました。彼はそこでさらに世界に対して目が開かれていったようです。

彼は満州で外務大臣にまで登り詰めますが、当時の満州国の(日本)政府の中国人へのひどい扱いに反発して、1934年に辞任しました。彼の人道主義、正義感はこの頃すでに見ることができます。

1938年、彼はフィンランドのヘルシンキに外交官として就任し、1939年3月、リトアニアの当時の首都カウナスに、領事館を発足させる為に送られました。

その年の9月1日、ヒットラーがポーランドを侵略したため、多くのユダヤ人達は着の身着のままで逃れ、リトアニアに流れ込んできました。しかし、当時リトアニアに住んでいたユダヤ人達にはナチの大量虐殺が自分達のところにまで及んで来る事はとても信じられないことでした。それどころか虐殺そのものがあることさえ信じ難いことでした。

1940年、ソビエトがリトアニアに侵攻し、7月にカウナスにある全ての大使館を閉鎖し、立ち退くように通達されました。殆んどの国はすぐに立ち退きましたが、杉原氏はこの時20日間の滞在延長を求めました。ソビエトはユダヤ人がソビエトを通過することを“日本経由を許可するビザがあれば”と言う条件で許可していることを知っていたからです。

杉原氏は日本の政府にビザ発給の許可を求め電報を送りました。断られても、さらに頼み続けましたが、答えは3回とも絶対許可しないと言うものでした。

日本政府の命令にそむくことになれば、彼は家族もろとも路頭に迷うことになるでしょう。さらに命の危険にさらされることさえ考えたでしょう。彼にとっては本当に難しい決断だったことでしょうが、彼は最終的にビザにサインすることを選びます。

1940年7月31日から8月28日まで29日間、杉原氏は食事をする暇も無く、ひたすらビザを書き続けました。婦人も彼を手伝いました。ユダヤ人たちは昼夜を問わず領事館の前に並んでいました。その数は日に日に多くなっていきました。

9月1日、彼はベルリンに向かう列車の窓からでも、ビザを書き続け、列車が去る時には領事のビザのスタンプを一人のユダヤ難民に渡しました。それを使って一人でも多くのユダヤ人の命が救われる為です。

ビザを受け取ったユダヤ人達はシベリヤ鉄道でウラジオストックまで出て、そこから日本の神戸に来ました。数ヶ月間の滞在が許され、そこから日本政府の保護のもとで中国の上海に送られました。

杉原氏はその後、帰国しますが、最初日本政府は彼の行為を人道的と認めていましたが、1945年、突然彼を免職にしました。彼の人生は一転し、しばらくは通訳や翻訳の仕事をして、生計を支えました。その後はモスクワの貿易会社で働きました。

時が過ぎて、あの時ビザを受け取ったことによって、命を救われたユダヤ人達が杉原氏が誰であるかを探し出しました。1985年、杉原氏はイスラエルの最高栄誉を与えられ、日本政府も彼の免職に対する謝罪をし、彼の名誉は回復されました。彼が自分を犠牲にして発給した6,000ものビザは、彼らユダヤ人を救っただけでなく、40,000人もの彼らの家族の人生を救ったのでした。

ビザを発行して45年経って、「何故、あの時ビザを発行したのか?」と言う質問に彼は二つの理由を挙げました。ひとつは、彼らは助けが必要でしたと言う人道的理由。もうひとつは、神との関係でした。「私は政府に従わないことになるかもしれない。しかしそれを選ばなかったら、私は神に従わないことになるのだ。」と、彼は答えました。彼が神に従ったことによって、どれだけ多くの人の人生が救われたことだろう。

J0202222 1986年7月31日に、天に召されました。86歳でした。

長い記事でしたが、最後まで読んでくださってありがとうございました。

これらのHPを参考にさせて頂きました。

http://motlc.wiesenthal.com/site/pp.aspx?c=hkLTJ8MUKvH&b=475889

http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Holocaust/sugihara.html

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コメント

私、この話はドラマで見ました
日本人にも こういった人がいるんだと初めて知りました
 
彼の信じた道
迷わず進むべき道
私も見つけたいな☆

投稿: つばさ | 2006.05.11 00:42

つばささん

私も途中からだったんですが
TVドラマ見ましたよ。

彼も生身の人間ですから
失敗や悩みもあったでしょうね。
私も悩みながら、失敗しながらでも
最終的に何を選ぶかを、
しっかり見つけて行きたいですね。

投稿: Bamboo-shoot | 2006.05.11 22:03

こんにちは。

 いつも楽しく徒然草?を拝読しています。杉原千畝というテーマに思わず書込みさせて頂きました。

 旅行が好きで、フラッと海外へ出かけます。先日の連休はタイのカンチャナブリへ行きました。“戦場にかける橋”で有名なところです。共同墓地、JEATH博物館、鉄橋を見学し、第二次大戦中に突貫工事で造られた鉄道を訪れました。
 当日の気温は36℃。汗ダーダーになりつつ、断崖をゆく電車からの景色は驚くものがありました。たまたま話をしたフランス人は陽気に興奮していましたが、ボンヤリと“戦争の痕”を考えた連休でした。この線路はまぎれもなく人の手で造られたものだ、と。

 ノルマンディー、ベルリン、板門店、広島‥いつからか、戦争の痕を自分の肌で感じられる旅をしています。貴重な経験ですが、この経験が二度と現実にならないよう願ってやみません。

投稿: 酒本旅人犬 | 2006.05.13 17:33

酒本旅人犬さん
いろいろ旅を通して、よい経験をしているようで良かったです。
旅行をすると、意識してそこへ行くわけでないのに、
良く戦争の痕に出くわすことがありますね。
私も、韓国、パプア・ニューギニアで、サイパンで
又、ハワイの真珠湾等で直接日本が関わった
戦争の痕を見て心が痛みました。

人は平和を求めているはずなのに、
いつの時代にも世界のどこかで戦いが続いている・・。

聖書は“平和をつくる者は幸いです。”と言う。
具体的にはひとつひとつ問題が大きすぎて、
簡単じゃないと思うけど、
まず、自分の周りから、
自分の出来ることからしていきたい・・。

投稿: Bamboo-shoot | 2006.05.13 21:50

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